足袋づくりの始まり

利根川、荒川の2大河川に挟まれた行田市周辺地域では、両河川の氾濫で堆積した砂質土、豊富な水、夏季の高温が綿や藍の栽培に適していたことから、近世になると藍染の綿布生産が盛んになり、これを原料に行田のまちで培われた縫製技術を活かして、足袋づくりが始まりました。

日本遺産行田 | 足袋職人

足袋職人

行田足袋については、「貞享年間亀屋某なる者専門に営業を創めたのに起こり」との伝承があり、享保年間(1716~1735)頃の「行田町絵図」に3軒の足袋屋が記されていることから、18世紀前半には生産が始まっていたと思われます。享保年間に忍藩主が藩士の婦女子に足袋づくりを奨励したとの伝説があるように、その後足袋づくりは盛んになり、明和2年(1765)の「東海木曽両道中懐宝図鑑」に「忍のさし足袋名産なり」と記されるまでに、広く知られるようになりました。足袋には株仲間がなく、取引が比較的自由に行えたことから、足袋づくりは益々盛んになり、天保年間(1830~1844)頃には27軒もの足袋屋が、行田のまちに軒を連ねるようになりました。

日本遺産行田 | さし足袋(刺し子の足袋)

さし足袋(刺し子の足袋)

足袋産業の発展と足袋蔵の建設

近代に入ると足袋は大衆化して需要が拡大し、行田の足袋商人は東北地方や北海道に直接赴いてさらに販路を広げると共に、軍需用の足袋の生産にも携わり、他の産地を圧倒してゆきます。足袋づくりには作業工程ごとに専用の特殊ミシンが導入され、日露戦争の好景気を契機に足袋工場建設ブームが起こって、敷地の裏庭に工場が建てられてゆきます。

生産量が増えると、出荷が本格化する秋口まで製品を保管して置く倉庫として足袋蔵が必要になり、既存の土蔵の転用と共に、敷地の一番奥に足袋蔵が数多く建てられるようになりました。

石田三成の水攻めに耐えた忍城の城下町であった行田は、近世前半に城と城下町の整備が行われ、間口の広さに応じて各家に税が課せられたので、間口が狭く奥行きが長い短冊型の敷地が通り沿いに並ぶ町割りが形成されていました。近世の行田は、鴻巣·吹上から館林へと続く館林道·日光脇往環の宿場でもあったので、馬の世話を行う裏庭とそこに通じる路地が家々の間に設けられていましたが、近代になって馬の世話の必要 がなくなり、遊休化した裏庭に足袋工場と足袋蔵が建てられていったのです。

こうして短冊形の敷地に、北風に備えて北西方向のみを塗り壁にしたり、北西方向の窓を極端に少なくしたりといった防火・防寒対策を施した店舗·住宅、接客用の中庭、工場、足袋蔵、火除けを願う屋敷稲荷が表から列状に並ぶ、足袋商店特有の建物配置が形作られました。

行田の足袋蔵は、遅くとも江戸時代後期頃には建てられ始めていたようで、弘化3年(1846)の大火の際に足袋蔵が延焼を食い止めています。足袋蔵は商品や原料を扱いやすいよう壁面に多くの柱を建てて中央の柱を少なくし、床を高くして床下の通気性を高めるなど、内部の造りに特徴があります。足袋蔵の建設が本格化する明治30年代頃までは、純和風の土蔵が建てられていましたが、明治時代の末頃からは土蔵の小屋組みに洋風建築技術が導入され、土蔵だけでなく石蔵も建てられるようになりました。大正時代に入ると大型の足袋蔵も建てられるようになり、大正時代末には鉄骨煉瓦造の足袋蔵が現れました。昭和に入ると鉄筋コンクリート造、モルタル造、木造の足袋蔵も現われ、大小様々な他種多様の足袋蔵が昭和戦前期には建てられました。戦後は木材不足から石蔵が主流となり、昭和30年代前半まで足袋蔵の建設は続けられました。

日本遺産行田 | 戦後の石蔵(孝子蔵)

戦後の石蔵(孝子蔵)

行田の足袋蔵が他の“蔵のまち”と違って多種多様であるのは、このように100年以上もの長きに渡って、新しい建築様式を取り入れながら足袋蔵が建てられ続けたからなのです。そしてその背景には、生産量が増加しても企業統合等による大企業化には進まず、逆にのれん分けして次第に足袋商店と足袋蔵が増加、ピーク時には200社以上の中·小規模の足袋商店が共存して一大産地を形成していた、行田の足袋産業ならでは特色があったのです。

日本一の足袋のまち

東北·北海道に販路を伸ばした行田の足袋商店は、「力弥足袋商店」なら八戸、「道風足袋商店」なら尾去沢鉱山といったように、問屋を通さずに各々が地域単位で独占的な販売網を築き、強調しながら販路をやがて全国そして海外へと広げていきました。

日本遺産行田 | ゼリーフライ(左)フライ(右)

ゼリーフライ(左)フライ(右)

この頃の行田の人々は、老若男女を問わず皆が寝食を惜しんで工場や家庭で足袋づくりに励み、まち全体にミシンの音が響き渡っていました。寸暇を惜しんで働く女工さんの間で、手軽に食べられるおやつとしてお好み焼きに似た「フライ」、おからのコロッケとも言える「ゼリーフライ」が流行し、地域の食文化として定着しました。また、販売先への手土産として奈良漬が好まれ、行田の名物となりました。

こうして最盛期の昭和13~14年には、全国の約8割の足袋を生産する日本一の産地となり、「行田音頭」の歌詞に「足袋の行田を想い出す」とあるように、「足袋の行田か行田の足袋か」と謳われる“日本一の足袋のまち”になったのです。

継承され発展する足袋蔵のまち

靴下が普及した現在も、行田では足袋の生産が続けられており、日本一の産地として新製品を国内外へと発信し続け、「足袋と言えば行田」と多くの方に親しまれています。

足袋産業で繁栄していたことを象徴する多種多様な足袋蔵も約80棟が現存し、時折流れるミシンの音と共に、裏通りに趣きのある足袋蔵のまち並みを形成しています。そしてその再活用が、まちに新たな彩りを加え始めています。